コメント|映画『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』公式サイト
井浦 新(俳優)
人間のわがままさ、戸惑い、悩み、ポジティブなもの、ネガティヴなもの‥人間の生々しさが現れていた。僕はここに出ていた不器用な人々が、ひとりひとり愛おしかった。
池上 高志(複雑系研究者)
5億7千年前、アノマノカリスや三葉虫が出現する以前の、エディアカラの海の中をみているような映画だった。 ひしゃげたクラゲやパンケーキのようなものがゆらゆらする。われわれの祖先はそうしてゆらゆらしながら時を待っている。 やがて光を見、泳ぎまわる未来(とき)が訪れるのを。内藤礼の<<母型>>はそのエディアカラの海そのものであり、全生命の母体である。 この映画は、そこで育まれた生命の行く末を優しく追いかけていた。
岩瀬 大輔(ライフネット生命保険 社長)
豊島美術館の「母型」に初めて足を踏み入れた者が感じるあの不思議な感覚ーずっと前から知っている懐かしい処に帰り、いつまでもそこに留まりたくなるような感覚。鳥の囀り、靡く雲、造形物のカーヴ、青い空と射し込む光、はためく紐、冷たい素足、滴る水滴。音と映像を通じてあの体験が立体的に蘇ってきた。 本作において内藤礼さんの作品や芸術観は撮られる「対象」ではない。内藤さんの「つくる」という行為と触れることで呼び起こされる深い問いー生まれること、死ぬこと、存在することに関する問いと、中村祐子監督そして視聴者が対峙するための「媒介」となっている。 内藤さん、そして5人の女性たちとのダイアローグから中村さんによって選ばれ、切り取られた数々のことば。力強く語られたことば、無意識のなかから引き出されたことば、聴こえるか聴こえないかのかすかな音量で呟かれ消えていったことば。それらに耳を傾け文字に起こしてみると、あたかもひとつの詩のようになっていた。本作は映像作品ではあるが、テクストが映像を補助するのではなく、映像と音がテクストを鮮明に浮かび上がらせる背景音となっている。 ドキュメンタリーはいつしか創作の世界も交え、観る者の中でとけて融合していく。母型に佇む5名の女性たちの姿はただただ美しい。そして、見終わった者になんら解は与えられない。残るのは深い思索に耽ったあとの心地よい疲れである。
ヴィヴィアン佐藤(美術家)
内藤礼の作品と美術館という制度。 内藤礼の作品群と自然界に既存しているものたち。 特殊性と普遍性。 個人と人類。 存在と非存在。 そして、アートと映像。 それぞれの「瞬間」と「永遠」の定義。 それらを初めて気が付いたような態度で『あえかなる部屋』は全てを告発する。 しかしそれらはアートや映像が生まれた時からの宿命であった。
碓井 千鶴(Happy Tent代表/恵比寿映像祭プログラマー)
ひと粒ひと粒、生まれる雫が静かに流れて触れ合って、一体化しては時に離れ、次第に勢いを増してどこかへと突っ走っていく。 そんな私たちの生そのものに、中村監督はじっと寄り添おうとする。 内藤礼と5人の女たちを見つめるカメラが映し出すのは、世界に対峙する覚悟を決めた中村佑子というひとりの女の生き様だ。
伽奈(女優/モデル)
内藤礼さんの「母型」と面する5人の女性の、作品を見つめる姿や心の動きを見ることで、 本物の作品に触れることとは違う形で、作品を体験しました。 それぞれの内面をもってあの空間に立ち、皆やはり水滴達を見つめるけれど、それぞれの思いに沿った形でくるまれ、それが新しい形となって見え、強く印象に残っています。
川内 倫子(写真家)
内藤さんのささやきが弧を描いて振動する。 それを受けて呼吸をする。 わたしの胸のうちも小さく震えて泣きたくなる。 それぞれがぞれぞれの人生を生きている。 それぞれの思いは浮かんでは消えて、ときどき寄り添いあう。 あの水滴のように。 それはとても儚いけれどあるのだ、と映画を見ながら気づいてまた胸が震えた。
KIKI(モデル/女優)
内藤礼の母型に入ったとき、母の胎内はこんな居心地だったろうかと、記憶のはじまりを思い出したような気がした。 白い地べたに寝そべると、ひんやりと肌に吸いつくような、あるいはからだが溶け込んでいくような。 転がる水玉は、肌を伝う涙のようだと思った。

映画に関わる女性たちは、皆、どこか寂しげだ。こころが泣いているような気がした。 しかし、彼女たちが内藤礼の作品に触れると、その目にやさしさが宿る。そのとき、気づいた。 ただ寂しいのではなく、寂しさを知っているから、だから、強く生きるしかないのだと。 流れる涙は、あたたかい。目に見えるとすれば、きっと母型を流れる水玉のようなものではないだろうか。 やさしく、あたたかく、そして寂しい。この映画、そのものの温度だと思った。
倉本 美津留(放送作家・ミュージシャン)
本当に大切なことは目に見えない。その見えない大切なことが見えてくる不思議なドキュメンタリー映画。 見えない力で紡がれていく映像は、途轍もなく心に染み渡っていく。
小島ケイタニーラブ(歌手・音楽家)
赤ちゃんのハイハイほど力強いものはない。ぶつかりながら、転びながら、生傷を絶えず作りながら、目の前の世界を認識していく。世界から拒否されても構わず向かっていく。もちろん痛いから泣くけれど、その痛みを通して赤ちゃんは他者との距離を見つけていくのだろう。 内藤さんに拒否された中村監督。その映像は、一歩ずつ這いながら進んでいく生命力の塊のようだった。世界から拒否され、出演者全員の痛みを引き受けながら、《母型》へと目指していく姿に心が何度もふるえた。拒否される、ということを初めて羨ましく思った。
今野 勉(テレビ演出家)
内藤礼は、自らの内なるところからあえかなるもの≠ェ生れ出る場に カメラが存在することを拒否する。その拒否によって監督の中村佑子は、 自らの映像作品がどの様に生れていくかを撮ることであえかなるもの の実体を示さざるを得なくなる。撮ることの不可能性と撮ることの恍惚。 その先に生れるあえかなるもの≠フ誕生に私たちは立ち会うことになる。 中村の映像作品「あえかなる部屋」はいまの時代にとても必要な作品である。
小林 エリカ(作家・マンガ家)
内藤礼さんのドキュメンタリーでありながら、この作品は同時に監督自身の、女性ひとりひとりの、 人間そのものの、生きるということ死ぬということの、ドキュメンタリーになっているのが凄いです。 内藤さんの作品たちやアーティストとしての凄さと拮抗するように、この映画作品そのものが静かに炸裂してゆくという斬新さときたら!真剣勝負な姿は、祈りにも似て、胸打たれます。
小沼 純一(音楽・文芸批評家)
であうこと、であわせること であうこと、に寄り添うこと。 他者と作品。 それぞれの出会いのかたち それぞれの人たちのなかにあるもの、通りすぎてきたもの、蓄えられてきたもの、培ってきたものが重なりあっている。 逆に、映画は、内藤礼の作品にふれたひとりひとりを照らしだし、 女性たちは内藤礼作品を「演奏」するのだ、そこにいることで。 そう、だから、映画なのだ。 映画でなくてはならないのだ。 しかもあの作品だから、空間をもった、時間をもった、動く作品だから。 それはひとの奥にあるものを誘いだしてくる。 水と風によって。
坂口 修一郎(ミュージシャン/プロデューサー)
「ノンフィクション」の「映画」をみるんだと思って見始めたんですが、 その映像がつくりだす空間は映画というような小さなジャンルの範囲を超え、まるで自分がみるはずだった夢を見ているようなリアルな体験がありました。 やはり予定調和を超えたあたらしい表現は、アクシデントとそれに負けない魂からうまれるんだと再認識しました。すごい。
椹木 野衣(美術批評家)
ひとが世界に働きかけるとき、じかに手を下すことはできない。 必ず、なにかしらの媒介を必要とする。それは、アートであろうが、日々の営みであろうが関係がない。 しかしアートは、そういう変えがたい「働きかけ」だけに気持ちを集中させる。 内藤礼の作るささやかな場は、とくにそうだ。しかしそれだけに、場の提供者となる内藤には、過酷なまでの集中力が必要とされる。 それだけでヘトヘトになるほどの。だから、その様子を映像に撮ることくらいむずかしいことはない。 純粋な働きかけは、別の働きかけが起きている場では、なりたたないからだ。 そういうむずかしい、というか無理な記録に、あえて監督の中村は挑み、いったんは失敗し、そしてその先でもう一度世界を組み直す。 それはもう、カメラによる働きかけではない。 内藤の作品を通じて、中村そのものが自作によって働きかけられている。きっと、本作を見る者もまた。
清水 知子(筑波大学大学院准教授 - 文化理論・比較文学- )
小さな水滴が、ゆっくりと生成しては融合し、離接的に共振する。 女たちの言葉が、打ち寄せてはひく波のように響きあう。 《母型》は、青空と風と音と光を通して外の世界とつながっている。 すべての光景が、まるで詩の情景のように心に焼き付いて蘇ってくる。  それは、この世に生をうけたものたちの儚さと脆弱さを、そしてそれゆえの凜とした強靱さを物語っているかのようで、生動の苦悶と、息をのむような透徹した美しさに満ちている。  この作品は、刻々と変化する世界のなかで、ゆっくりと足をとめ、深く息を吸い、もう一度この世界と出会い直す、女たちの生成の旅のドキュメントである。
鈴木 謙介(関西学院大学社会学部准教授)
わたしと関係なく存在している世界
世界と関係なく存在しているわたし
両者が背中合わせのように交わることは
ほんとうに一瞬、あるかないかなのだけど
現れてはまぼろしのように消えるそのときを
気づけば息を止めて追いかけるような作品でした
瀬尾 夏美(作家、画家)
内藤礼さんの作品の前に立つことはどこか、命をかけるような大きなこと、のように思える。それは、内藤礼さんの作品がつくる場に立って世界にじっと対峙することが、私のちっぽけな自我を揺すぶるからだと思う。世界にいるということは、それだけでおこがましくて怖いことであり、その一方で、どうしようもないくらいになんでもないことだと、私は考えたりする。それは、何かにがんじがらめになった日常にもたらされる、ひとつの救いのようでもある。 風に揺れる白い糸、粒となって滑り落ちる地下水の玉、そっとたたずむ小さなひと。内藤礼さんによって世界に産み落とされたそれらに、この映画に出てくる女性たちが触れていく。監督自身も含め、女性たちはみな、内藤礼さんの作品の前で、そういう切実さの淵に立たされているように見える。水滴を追う瞳、何かに触れようとする指先、触れそうで触れない互いの息づかい。そのさまがただ、うつくしく、やさしいと思った。 この映画を体験し、私は何を見たのだろう。それはまだわからないけれど、このが映画がつくる時間もまたひとつの、深呼吸をする場になっているのかもしれない。
谷川 じゅんじ(スペースコンポーザー/JTQ株式会社代表)
4年前。 自分自身が初めて訪ねた豊島美術館。 言葉に出来ない空気の微細な震えが何だったのか。 存在の縦糸と横糸が織りなす理<ことわり>がおぼろげに体を成す。 内藤さんは言っている。 「この世界に自分ではない他人がいることを奇跡のように思えるようになってきた」 自分ではない他人。その存在こそが奇跡。 いまこの瞬間もぼくは存在しつながっている。 たとえそれがか弱く頼りない何かだとしても。 儚くて今にも消え入りそうな“いのち”のまたたきを こころから愛しく思える瞬間がこの映画には溢れてる。
樽本 樹廣(OLD/NEW SELECT BOOKSHOP 百年)
内藤礼、中村監督、カメラに向かって語る5人の女性たちは、みな何かに苛立っているように見えた。 それぞれが抱えていることを言葉にしようとするが、それは別の意味へと変換されていくようにも思えた。 《母型》での彼女たちは、その子宮を思わせる場所で、言葉にできない何かと静かに向き合っているようだった。 その後、ひとりの女性が、《母型》で何を受け取ったかはわからないけど大事なものに触れた、と言っていた。

私たちが普段生活している中で、そうした機会はほぼないし、それがあるのかどうかすらわからない。 きっと記憶の奥深くにあり、忘れてしまっているだけなのだろう。おそらくそれを思い出す時間が必要なのだ。 この映画は観る人を《母型》へと連れて行き、大事な何かに触れる時間を過ごすための映画だった。 そして、「私」の苛立ちは「私」の肯定へと変換されていくようでもあった。
丹所 千佳(編集者)
内藤礼さんの作品から伝わってくる、静けさ、優しさ、ひそやかさ、強さ、儚さ、繊細さ、美しさ、尊さ、「ゆるされている」感じ、 なにか泣きそうになる感覚、いとおしさ、そういったものがこの映画全体に流れているように思います。
筒井 武文(映画監督)
ひとつの旅の記録として形作られかける映像と音響の連なり。そこでは何かを立ち上げようとしながら、意味に帰着しまいとするかのようだ。 言葉にならない体験を語ろうとするからか。自我としての声が導入されても、この揺らぎは消えない。 やがて、他者が存在することの奇跡へと向かう、この映画らしきものは、そこでも表現することの二律背反に揺れ、見る者にも伝播する。 フレームのなかの光に撃たれながら、自らの記憶の光とも対峙を迫られるからだ。不在であることの現存。自己と他者の境が揺らぐ、この稀有な体験。
遠山 正道(スマイルズ 代表)
ドキドキしてしまった。 うまく進まないもどかしさ、ドキュメンタリーかフィクションか。 価値という可視化、言語化しづらいもの、もやもやした思いの中でとにかく諦めずに向かってみる。内藤礼と母型の物語でありながら、監督自身の物語となった。 何かに挑戦しようとする人に、見てもらいたい。
中条 省平(学習院大学フランス語圏文化学科教授)
稀有の美術家・内藤礼に迫るドキュメンタリーから出発して、監督・中村佑子の<私映画>という回路をくぐりぬけ、5人の女性の多様な生の屈折と出会う。その転変を見守る静謐な画面から、偶然を必然に変える、映画ならではの卓越したスリルが生まれでる。その底にあるのは、人間が個であることの痛みと、かけがえのなさだ。
中西 大輔(編集者/キュレーター)
『あえかなる部屋』の開幕は、あたかも美術家・内藤礼と中村監督の一対一のデスマッチのようだ。 仕掛ける監督も仕掛け返す主人公も、自身の存在を賭けている。映像の外で向き合う二つの眼差しは、内藤作品《母型》を詣でる五つの眼差しを縒り合せたメビウス的円環に、柔らかに包摂されて行く。 この作品は、深い愛憎(それは監督と主人公の間にまず立ち現れる)が対立を招き、やがて愛憎に代わって共感が対立を解消するメカニズムを伝える。ドキュメンタリーの常道をはずす作法もすべて、このあえかな一瞬の共感の迫真性を拾い上げるためにある。そのようなことを可能にした映像作品を他に全く知らない。
南後 由和(社会学者/明治大学情報コミュニケーション学部専任講師)
アートを外在的に撮った映画とは何か違う。確実に違う。内藤礼と中村佑子監督の交感が生み出した《母型》=映画。二つを分けることはできない。内藤の《母型》と西沢立衛の《豊島美術館》を分けることができないように。水の中に水があるように。 女性たちの「内的体験」が連鎖しながら、内藤のアートが「開かれた作品」へと昇華されていく様に息をのんだ。
西山 敦子(翻訳家)
内藤礼さんがカメラの前に立てなくなり、中村佑子監督は内藤作品の示す問いの本質というものを映画にしていこうと決める。 バトンを渡された監督と、行き先が決まらないまま生まれつつある映画。それを呆然と観ているひとりひとりが、このヴィジョン・クエストの道連れなのだ。 やがて登場する5人の女性たちも。真ん中には内藤さんの作品がある。 《母型》から生まれでる水の粒が様々な形であるように、わたしとあなたは違っている。 それぞれが「わたし」をまっとうして生きるのは、自由で楽しくもあり、孤独で過酷かもしれない。それでもふと見回すとそこここにいる、同じようにもがいている人たちをこそわたしは「わたしたち」と呼びたい。 そういう者たちにとってこの映画は、生涯忘れることのできないものになるはずだ。このあえかなる場所に「わたしたち」はいつも戻る。
羽田野 直子(脚本家)
この映画を見て言語化するのに長い時間を要したのは、この映画に貫かれている内藤さんと中村監督の「丁寧であること」と無関係ではない。 作品にする対象に向かうとき、自分の内面ともしっかり対峙させながらそれがもたらす変化の兆しからも決して目を逸らさず、安易には客観化(決着)させずの姿勢に感化されたのだと言える。 あるときカメラの前に立つことを拒否した内藤さんの、そして中村さんの分身として五人の女性が登場する。彼女たちは個としてしっかりそこに存在しながら、同時に誰かの現し身だ。 彼女たちが内藤さんの「母型」に集うとき、この映画は静かなダイナミズムを見せる。それぞれが思い思いに母型の中に佇み、寄り添うとき、さまざまな化学変化が起きる。 彼女たちが無数の水滴と等価の、どこまでも透明な存在として有り続けるのを中村監督はカメラで刻々捉え続ける。 「生(せい )の生 (なま )の姿」としか言いようのない映像を見ているうちに、いつしか自分も年月を遡り、あの豊島美術館でのたゆとうような時間と向き合っていた。
平尾 香世子(ヒラオインク代表取締役社長)
小さな島に呼吸するように存在するその美術館は、この地球上で私がもっとも心惹かれる場所の一つ。 人類がいなくなったとしても、この場所は残り、メッセージを伝えつづけていくのではないか、そんなことさえ思える存在。 「地球に存在していることは、それ自体 祝福であるのか」作品中に問いかけられる、存在意義。 人は同じ時間や空間を共有していたとしても、同じ世界には生きていない。それでも個々の存在を感じ、共鳴して生きている。 それは、一瞬一瞬が奇跡の連続なのである。日常にちりばめられた目には見えないきらきらした輝きを、思い出させてくれる作品。 出会えたことに心から感謝。
藤村 龍至(建築家/ソーシャルアーキテクト)
豊島美術館のコンクリートの床は、驚異的ともいえる細かな水勾配の操作によって微地形が構成され、そこに撥水加工が施されて「内藤礼」の存在と呼応する。 「あえかなる部屋」もまた複雑な「床」を作っていて、5人の女性がそのうえを転がって関わり合う。 「複雑な床」を実現しようと熱中しているアーキテクト(=中村監督)に「なぜそんなことをするのか」と聞くのは野暮というもの。 それ自体が美しく、現代的な感覚に包まれている。
ほしお さなえ(小説家/詩人)
<母型>のなかで、人は自分の問いと出会う。答えを探して旅に出る。人と出会うことが旅なのだ。映画を見てそう感じた。答えを知っている人はいない。 わかるのは、ほかの人もみな問いを持っているということだけ。女はその身体の構造から、他者を外として見るのではなく、入れ子のように関わるのかもしれない。 <母型>のなかを伝う水滴のように人々が重なり合う。癒されるのではない。ともに戦っていこうと誘われている。
茂木 健一郎(脳科学者)
水滴の表面には全てが映っている。大きいと小さい、美しいと平凡。意味あると、意味ない。たくさんの勘違いに目がくもって、命そのものを見失っている私たち。 内藤礼さんの世界に中村佑子さんが寄り添ったこの映画は、ヴェールをほんの少しだけ持ち上げ、その向こうを垣間見せてくれる。 母型に回帰する女性たちの、花嫁のような佇まい。やがて、秘跡の瞬間が訪れる。西日の壁。白い光の中の笑顔。すべては、そのままで、それでいい。
山岸 ゆりは(モデル)
ドキュメンタリーの主役が映らないので初めは戸惑いました。 代弁するように女性達が生死についてを語る姿を真正面から覗いてるような不思議な感覚になり、そしてカメラが何気ない足元や後ろすがたを追い続け、言葉を発する表情と視線に目が離せなくなります。 美術館での五人と母型とのバランス、そして映画に包まれている空気に圧倒されます。